進まない読書

留年したのでブログ始めました。東大文三。モンハン、ポルノグラフィティ、夏目漱石、少年ジャンプ、大河ドラマ、みかん等が好きです。節操はない。

「文学部って何やってるの?」に対する答え方

どうも、オオシマです。まあ別に大島でもいいんですけど。カタカナのほうがブログ感あるよね!

 

今日は、たまに目にする「文学部って何やってるの?」という問いに対する、現状での僕の答え方について書きます。「正解」はよくわからないので便宜的に「答え方」としました。

(正確にはまだ僕は「教養学部」なんですが…)

 

ひとくちに「文学部」と言ってもジャンル的には言語学やら宗教学やら考古学やらと幅広いので、とりあえず僕の属する「国文学専修」について……いや、それでもまだ広いな。『源氏物語』とか古い時代のやつをはじいて「近代日本文学」に限定……してもまだ広い。

さしずめ「大島の考える近代日本文学研究」くらいがちょうどいいかなと(もうジャンルでもなんでもねえ)。研究の手法もさまざまなので、人の数と同じだけの答え方があるような気がしています。

 

まずは知られざる名著の前書きから引用。

批評やエッセイは商品である。研究論文も商品である。(中略)どちらも商品である以上、買ってよかった、読んでよかったと思ってもらわなければならない。一般の読者の「ふつう」の読み方に対して、それを念頭に置きながら、「ふつうでない」ことを言わなければならない。したがって、これらの商品は「ふつうは~だが、実は(しかし)~である」という文章構成になっていることが多い。

夏目漱石『坊っちゃん』をどう読むか :石原 千秋|河出書房新社
この本自体も『坊っちゃん』を100倍面白く読めるドーピング剤じみたシロモノなので別の機会にちゃんと紹介したいですが……ひとまず後書きへ続く。

(前略)もちろん、そういう「ふつう」がレベルが低いというわけでは決してない。「ふつう」が楽しい読者もいれば、「実は(しかし)」が楽しい読者がいるだけの話である。因果なことに、研究者や批評家は、どのようなレベルであれ、「実は(しかし)」と書けなければ食べていけないのである。

というわけで僕は、冒頭の質問に対してはさしあたり「文学をもっと面白く読む方法を探すこと」という風に答えております。あるいは、世界はボケとツッコミで成り立っているという二元論の立場から言えば「文学に斬新なツッコミを入れること」でもいいです。

「語りの構造はどうなっているのか?」(特定の誰かの視点に寄り添った地の文なのか、それとも作中人物を行き来できる神の視点なのか、など)
「そうなるとここの地の文にこの表現が使われているのはおかしくないか?」
「つまり一人称の回想体の語りに伴うバイアスを考慮して物語を読み直すと、また別のストーリーが浮かび上がるのではないか?」

まあだいたいこんな感じで、既存の文学作品をこねくり回してはいろんな解釈を試みるヘンタイ集団と言えましょう。当然その「解釈」の余地が豊穣であればあるほど面白いなーということになるわけで、その意味で漱石は最高だったり。

 

ともあれ言いたいのは、文学部とかじゃない人もぜひもっと「イキり読者」になってくれたらいいのに!ということ。

冒頭の石原千秋先生の文章を見れば分かるように、文学研究者あるいは文学徒ってヤツは新たな解釈(らしきもの)を生み出してはドヤ顔をキメている連中です。冒頭の文章の引用元は『坊っちゃん』の評論やエッセイを集めた本ですが、それらのメッセージを死ぬほど雑に要約すると

 

「キミらはパンピーだから『坊っちゃん』って正義漢が悪に鉄槌を下す爽快な小説だと思ってるでしょ???でも実は違う読み方もできるんだぞ!!」

 

ほらこれはもうイキってるでしょ。学問として文学やってる人なんてみんなイキってるんですよ。基本。

ちなみに石原先生は「ふつう」の読みが低レベルだと言ってるわけではない、としっかりコメントを挟んでおられます。それはその通り。別に解釈なんて加えないでニュートラルに楽しめばいいし、それがむしろ自然だし。

 

とはいえ昔の文学なんてのは時代背景からして違います。そうするとテキストに織り込むアソビの質も違うわけで、当時の読者には面白かったことも現代の読者にとっては「何が面白いねんこれ?」って話になりかねません。僕も『三四郎』を初めて読んだときは正直「???」という感じであまりハマれませんでした。でも今ではあんなに面白い小説はそうそうないと思っています。清々しい手のひら返し。

 

もちろん、文学の価値を決めるのは読者です。2019年現在の読者がつまらないと感じるのなら、単純に「賞味期限切れ」とも言えます。ならば無理に楽しもうとせず、別のやつを見つけたらいいじゃないかと。

そう思う一方で、僕はまだ近代文学を諦めきれません。近代文学が、漱石文学が、終わっていくのを認めたくありません。なぜなら自分自身が感動してしまったから。イマイチ面白くないと思っていた『三四郎』が、文学者の施す「解釈」によって無限のアソビ場へと転じていくプロセスを味わってしまったから。

 

だからもっと各々好き勝手にイキった解釈をしてドヤ顔をして語り合って楽しんだらいいんだろうな、と思います。
そもそも「文学」って字面がゴミです。どこか人を身構えさせる、近寄りがたいオーラが漂っているでしょう。よろしくない。でも俗っぽい(とあえて言います)楽しみ方はいくらでもできます。たとえば、以下の5通りのストーリー。

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・『こころ』は「私」と「先生」とのBL物語である。
・静(奥さん)はKと結婚したかった。しかしKがなかなかアクションを起こさないので、Kを焦らせるためあえて「先生」を誘惑した「策略家」である。
・静はKの自殺をきっかけに変貌し感情をなくしたサイコパス女である。
・「先生」は、このままだと静とKが結婚する気配を感じた。そうなればKは静のものになってしまう(これもBL)。ならば自分が静と結婚してしまえば、Kは誰のものにもならない……という無意識下の策略。
・「先生」亡き後、「私」は静と事実上の夫婦となってしかも静は「私」の子どもを宿している。

どれも一見正気の沙汰じゃない感じですが、こういうのを大真面目に研究しているのが文学研究者。そして実際に「そういう物語なんだ」というつもりで『こころ』のテキストを読むと、確かにどの解釈のラインもありえたりするわけです(厳密にはどれか1つのルートってわけではなく、レベルの強弱がありつつ複合的に絡み合う)。

 

もし嘘だと思われた方は、お手元にある……まあなくてもいいんだけど、『こころ』をぜひ読み返してみてほしいなと思います。そして、上の5つのルートたちに賛同できるかどうかを聞かせてください。

きっとその対話から、文学復活の一歩が始まる。