感想と実験

留年したのでブログ始めました。東大文三です。モンハン、夏目漱石、ポルノグラフィティ、少年ジャンプ、みかん等が好きです。節操はない。

日本人よイキり読者であれ

まずは知られざる名著の前書きから引用。ここ重要なので300回くらい読んでください。

批評やエッセイは商品である。研究論文も商品である。(中略)どちらも商品である以上、買ってよかった、読んでよかったと思ってもらわなければならない。一般の読者の「ふつう」の読み方に対して、それを念頭に置きながら、「ふつうでない」ことを言わなければならない。したがって、これらの商品は「ふつうは~だが、実は(しかし)~である」という文章構成になっていることが多い。

夏目漱石『坊っちゃん』をどう読むか :石原 千秋|河出書房新社

そして後書きへと続く。

(前略)もちろん、そういう「ふつう」がレベルが低いというわけでは決してない。「ふつう」が楽しい読者もいれば、「実は(しかし)」が楽しい読者がいるだけの話である。因果なことに、研究者や批評家は、どのようなレベルであれ、「実は(しかし)」と書けなければ食べていけないのである。

ちょいちょい訊かれる「文学部(とりわけ近代日本文学専攻)って何やってるの?」という問いへの答え、何となーくお分かりいただけただろうか。

 

「ここの地の文にこの表現使われてるのおかしくね???」

「そうなると語りの構造としては……」

「つまり一人称の回想体の語りに伴うバイアスを考慮して物語を読み直すと……」

 

要は既存の文学作品をこねくり回し、いろんな解釈を試みるヘンタイ集団である。そのわりに自分たちが新たな文学を生み出すわけでもない。果たしてコイツらの存在意義とは……ってなると重すぎる話になるので、今日は割愛して。

 

とりあえず、日本人はもっと「イキり読者」になっていいんだぞ!と声を大にして言いたい。

 

冒頭の石原千秋先生の文章を見れば分かるように、文学研究者あるいは文学徒ってヤツは新たな解釈(らしきもの)を生み出してはドヤ顔をキメている連中である。冒頭の文章の引用元は『坊っちゃん』の評論やエッセイを集めた本。その本を死ぬほど雑に要約すると

 

「キミらはパンピーだから『坊っちゃん』って正義漢が悪に鉄槌を下す爽快な小説だと思ってるでしょ???でも実は違う読み方もできるんだぞ!!」

 

ほらこれはもうイキってるでしょ。文学やってる人なんてみんなイキってるんですよ。

 

一応石原先生は「ふつう」の読みが低レベルだと言ってるわけではない、と弁解はしておられる。それはその通り。別に解釈なんて加えないでニュートラルに楽しむ方法だってある。むしろそのほうが自然で良いとさえ思う。

 

とはいえ昔の文学なんてのは時代背景が違う。テキストに織り込むアソビの質も違う。だから「解釈」なしだと、現代の読者にとっては「何が面白いねんこれ」って話になる。僕も『三四郎』を初めて読んだときは正直「???」って感じだった。でも今ではあんなに面白い小説はそうそうないと思っている。清々しいくらい手のひらクルクルである。

 

まあ、そりゃ文学の価値を決めるのはあくまで読者ですよ。2018年の読者がつまらないと感じるのなら、それは単純に「賞味期限切れ」ってこと。ならば無理に楽しもうとせず、別のやつを見つけたらいいじゃないか。

 

そう思う一方で、僕はまだ近代文学を諦めきれない。近代文学が、漱石文学が、終わっていくのを認めたくない。だって自分自身が味わってしまったから。イマイチ面白くない『三四郎』が、文学者の施す「解釈」によって無限のアソビ場へと転じていくプロセスを。

 

だからもっと各々好き勝手にイキった解釈をしてドヤ顔をして語り合って楽しんだらいいのです。「文学」だからって身構えずに低俗な楽しみ方をしたらいい。たとえば、

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・『こころ』は「私」と「先生」とのBL物語である。

・静(奥さん)はKを焦らせるためあえて「先生」を誘惑した策略家である。

・静はKの自殺をきっかけに変貌し感情をなくしたサイコパスである。

・「先生」の告白はBL的にKを独占するため、すなわち静にKを渡さないための無意識下の策略である。

・「先生」亡き後、「私」は静と事実上の夫婦となってしかも静は「私」の子どもを宿している。

 

どれも正気の沙汰じゃなさそうだけど、こういうのを大真面目に研究しているのが文学者(ヤバい)。そしてテキストを読むと、確かにどの解釈のラインも有り得たりする(どれか一つというのではなく、レベルの強弱がありつつ複合的に絡み合うのだろうけど)。嘘だと思うなら、ちょっと手元の『こころ』を読み返してみてください。そして、上の5つのルートたちに賛同できるかどうか聞かせてください。

 

その対話から、文学復活の一歩が始まる。