感想と断片

留年したのでブログ始めました。東大文三。モンハン、ポルノグラフィティ、夏目漱石、少年ジャンプ、大河ドラマ、みかん等が好きです。節操はない。

広報と鉄槌

先日、所属している某団体でのとある企画を終えました。別に自分が主導していたわけではないから大きな顔をする道理はないけど、それなりに切実だった思考の断片を記録しておきます。


また、ブログとして成立させるためにネガティブなオーラを色濃く漂わせてるだけで、企画自体は(準備も含めて)フツーに楽しかったよ!ということは注記しておきます。念のため。

 

◆◆◆

 

死刑宣告の鉄槌を待つような日々だった。

 

広報、それが自分の揺らがぬ役職である。若輩なりに経験は積んだ。ものごとを定石通りに動かし、定石通りの成果を手に入れる方法ならば知っている。逆に言えばそれしか知らない。吹けば飛ぶような、哀れなほどの脆さだけに支えられていた。

 

だから人通りもまばらな裏路地に、数百人を呼ぶ方法なんて解らなかった。フォロワーが1万人いるTwitterで何度となく呼び掛けようと、決して1万人に言葉が届くわけではない。どうにもならない。「何とかなる」と無邪気に信じきるには、すでに到底手ごたえのない日々を送りすぎていたし、悪意なき人々の無関心に慣れすぎていた。

 

10ヶ月という準備期間。100万円という額。およそ初めて経験するものばかりだ。さらに絡み合う色々な人の想いが、この鍛錬不足の双肩にのしかかっていた。かりそめの怪気炎では払い除けられない。逃げたい。消えたい。タイムリミットは刻一刻と迫り来る。

 

準備に際して色々な人が頑張っていた。しかし、頑張っているのを見たくなかった。その頑張りがついに水泡に帰したとしたら、どう償えばいいかが解らなかったからだ。優しい人はきっと「君のせいではない」と言うだろう。けれどその優しささえも、苦痛でしかないのは予測できた。むしろ擬似的な死の宣告と言っていい。

 

いつだって最悪の未来を想像しすぎる悪い癖は、鼓動のスピードを否応なく跳ね上がらせる。ブレーキの軋むバイクのように。

 

だから止まるのは諦めた。跳ね馬のような無様な感情に身を任せる限り、ぎゅっと目をつぶって動いていられた。その感情とは何だったのか。別にみんなの喜ぶ顔を見たいわけではなかった。それと似ているけれど、もっとずっと消極的な理由だ。

 

ただひたすらに、みんなの悲しむ顔を見たくなかったのだろうと思う。

 

恐怖という名が一番似合う。しかし愛と呼びたければ呼んでもいい。とにかく、その愛のようなものが呼ぶほうへと進むことで、判決を下す鉄槌からようやく逃げているように錯覚できた。

 

さて結果については、知っている人もいるかと思うが、それなりに胸をなで下ろせる感じにはなった。というかもし結果が悪ければこんな文章を書いてる場合ではない。「もう触れないでくれ」とばかりに黒歴史コーティングを施し、雲隠れ一直線だったろう。

 

いざ終わってみればさほど気が抜けることもなく、相も変わらず謎の焦燥感には追われ続けている。元々そういう体質なんだろう。幸せにはなれない。「失敗してもどうせ死なないから何でもいいや」と考えるようになったのだけは進歩かもしれない。

 

戦場は今やがらんどうである。また誰かがあの場所で一夜城を造り、各々の戦いを始めていく。勝利の美酒、敗北の苦汁、どちらかを味わう。

 

勝利に酔える人は良い。

 

けれど、それをうらやみながら、醒めた頭でGREEN DAKARAを飲み続けるのだって悪くはないんじゃないか、と思う。

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日本人よイキり読者であれ

まずは知られざる名著の前書きから引用。ここ重要なので300回くらい読んでください。

批評やエッセイは商品である。研究論文も商品である。(中略)どちらも商品である以上、買ってよかった、読んでよかったと思ってもらわなければならない。一般の読者の「ふつう」の読み方に対して、それを念頭に置きながら、「ふつうでない」ことを言わなければならない。したがって、これらの商品は「ふつうは~だが、実は(しかし)~である」という文章構成になっていることが多い。

夏目漱石『坊っちゃん』をどう読むか :石原 千秋|河出書房新社

そして後書きへと続く。

(前略)もちろん、そういう「ふつう」がレベルが低いというわけでは決してない。「ふつう」が楽しい読者もいれば、「実は(しかし)」が楽しい読者がいるだけの話である。因果なことに、研究者や批評家は、どのようなレベルであれ、「実は(しかし)」と書けなければ食べていけないのである。

ちょいちょい訊かれる「文学部(とりわけ近代日本文学専攻)って何やってるの?」という問いへの答え、何となーくお分かりいただけただろうか。

 

「ここの地の文にこの表現使われてるのおかしくね???」

「そうなると語りの構造としては……」

「つまり一人称の回想体の語りに伴うバイアスを考慮して物語を読み直すと……」

 

要は既存の文学作品をこねくり回し、いろんな解釈を試みるヘンタイ集団である。そのわりに自分たちが新たな文学を生み出すわけでもない。果たしてコイツらの存在意義とは……ってなると重すぎる話になるので、今日は割愛して。

 

とりあえず、日本人はもっと「イキり読者」になっていいんだぞ!と声を大にして言いたい。

 

冒頭の石原千秋先生の文章を見れば分かるように、文学研究者あるいは文学徒ってヤツは新たな解釈(らしきもの)を生み出してはドヤ顔をキメている連中である。冒頭の文章の引用元は『坊っちゃん』の評論やエッセイを集めた本。その本を死ぬほど雑に要約すると

 

「キミらはパンピーだから『坊っちゃん』って正義漢が悪に鉄槌を下す爽快な小説だと思ってるでしょ???でも実は違う読み方もできるんだぞ!!」

 

ほらこれはもうイキってるでしょ。文学やってる人なんてみんなイキってるんですよ。

 

一応石原先生は「ふつう」の読みが低レベルだと言ってるわけではない、と弁解はしておられる。それはその通り。別に解釈なんて加えないでニュートラルに楽しむ方法だってある。むしろそのほうが自然で良いとさえ思う。

 

とはいえ昔の文学なんてのは時代背景が違う。テキストに織り込むアソビの質も違う。だから「解釈」なしだと、現代の読者にとっては「何が面白いねんこれ」って話になる。僕も『三四郎』を初めて読んだときは正直「???」って感じだった。でも今ではあんなに面白い小説はそうそうないと思っている。清々しいくらい手のひらクルクルである。

 

まあ、そりゃ文学の価値を決めるのはあくまで読者ですよ。2018年の読者がつまらないと感じるのなら、それは単純に「賞味期限切れ」ってこと。ならば無理に楽しもうとせず、別のやつを見つけたらいいじゃないか。

 

そう思う一方で、僕はまだ近代文学を諦めきれない。近代文学が、漱石文学が、終わっていくのを認めたくない。だって自分自身が味わってしまったから。イマイチ面白くない『三四郎』が、文学者の施す「解釈」によって無限のアソビ場へと転じていくプロセスを。

 

だからもっと各々好き勝手にイキった解釈をしてドヤ顔をして語り合って楽しんだらいいのです。「文学」だからって身構えずに低俗な楽しみ方をしたらいい。たとえば、

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・『こころ』は「私」と「先生」とのBL物語である。

・静(奥さん)はKを焦らせるためあえて「先生」を誘惑した策略家である。

・静はKの自殺をきっかけに変貌し感情をなくしたサイコパスである。

・「先生」の告白はBL的にKを独占するため、すなわち静にKを渡さないための無意識下の策略である。

・「先生」亡き後、「私」は静と事実上の夫婦となってしかも静は「私」の子どもを宿している。

 

どれも正気の沙汰じゃなさそうだけど、こういうのを大真面目に研究しているのが文学者(ヤバい)。そしてテキストを読むと、確かにどの解釈のラインも有り得たりする(どれか一つというのではなく、レベルの強弱がありつつ複合的に絡み合うのだろうけど)。嘘だと思うなら、ちょっと手元の『こころ』を読み返してみてください。そして、上の5つのルートたちに賛同できるかどうか聞かせてください。

 

その対話から、文学復活の一歩が始まる。